作家一覧
横山 大観
1868年、水戸藩士の長男として常陸国水戸(現・茨城県水戸市)に生まれる。1878年に一家で上京し、東京英語学校を経て、1889年に東京美術学校へ第1期生として入学、校長の岡倉天心に学んだ。1898年の「東京美術学校騒動」で天心とともに辞職し、同年に日本美術院を創設。墨と筆の技法を新しくした画風は「朦朧体」と呼ばれた。1903年から1905年にかけてインド、アメリカ、イギリスなどで展覧会を開き、活動の場を海外にも広げた。1931年に帝室技芸員となり、1937年には第1回文化勲章を受章して、近代日本画を代表する存在となった。代表作に、墨だけで描いた画巻《生々流転》(1923年、重要文化財)がある。1958年、89歳で没。
上村 松園
1875年、京都市下京区に生まれる。幼いころから絵に親しみ、1887年に京都府画学校へ入学。人物画を志して同校教授の鈴木松年の画塾でも学び、翌年、松年から「松園」の号を与えられた。その後、四条派の幸野楳嶺、さらに竹内栖鳳に師事した。1900年の絵画共進会で銀牌を受けて画壇に認められ、1916年の第10回文展で永久無鑑査となる。1924年から帝展委員、1935年に帝展参与を務め、1948年には女性として初めて文化勲章を受章した。浄瑠璃の主人公を描いた《娘深雪》(1914年)、『源氏物語』に取材した異色作《焔》(1918年)、母を亡くした年に発表した《母子》(1934年、重要文化財)などで知られる。1949年、奈良県で没。
竹久 夢二
1884年、岡山県邑久郡本庄村(現・瀬戸内市)に生まれる。本名は茂次郎。1905年、雑誌『中学世界』の懸賞に投稿した「筒井筒」が一等に入選し、画家として歩み始めた。絵画のほか、流行歌『宵待草』の作詞、子どものための本や雑誌づくり、日用品のデザインまで、表現の場を幅広く切り開いた。1911年には、伊香保の少女から届いたファンレターをきっかけに群馬県の伊香保を知る。1914年、日本橋区呉服町に「港屋絵草紙店」を開き、商業美術の拠点とした。代表作《黒船屋》(1919年)は、亡くなった恋人・彦乃への思いを込めて描かれたとされ、最高傑作ともいわれる。関東大震災を記録したスケッチと文章も残している。1934年、長野県で没。
菱田 春草
1874年、旧飯田藩士の家に、筑摩県伊那郡飯田町(現・長野県飯田市)で生まれる。1889年に東京美術学校へ入学し、岡倉天心らのもとで、日本の古典的な様式に西洋の写実を取り入れる方針のもとに学んだ。1898年の東京美術学校騒動ののち、日本美術院の創設に参加。空気遠近法を取り入れた表現を研究したが、その革新的な画風は「朦朧体」と批判も受けた。ヨーロッパへの遊学を経て色彩の研究に力を注ぎ、晩年は装飾性を深めて、日本美術と西洋美術の調和をめざした。1910年の第4回文展に出品した《黒き猫》は、重要文化財に指定されている。1911年、東京・代々木で36歳の若さで没。
川瀬 巴水
1883年、東京府芝区(現・東京都港区)に生まれる。本名は文治郎。14歳で日本画を学び始めたが、両親の反対で中断し、家業の組糸業に就いた。のちに白馬会洋画研究所で岡田三郎助に洋画を学び、1910年に鏑木清方に入門。同門の伊東深水の版画『近江八景』に触発されて木版画に取り組み、渡邊版画店から作品を発表した。1920年の『旅みやげ第1集』で版画家としての地位を確立し、吉田博らとともに新版画の運動を担った。「東京十二題」「日本風景選集」など、日本各地を旅して描いた叙情的な風景版画を数多く残し、「旅情詩人」と呼ばれる。欧米でも評価が高い。1953年には、文化財保護委員会が《増上寺の雪》の制作工程を記録した。1957年、東京都大田区で没。
塩田 千春
1972年、大阪府に生まれる。ドイツ・ベルリンを拠点に、約30年にわたって国際的に活動している。糸を空間いっぱいに張り巡らせる大規模なインスタレーションで知られ、ほかに立体、ドローイング、写真、映像、パフォーマンス、舞台美術も手がける。記憶、アイデンティティ、存在、時間の流れといったテーマを通して、生と死をめぐる問いを追求している。2015年の第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展では日本館の代表作家として《掌の鍵》を発表した。主な個展に、森美術館(2019年)、グロピウス・バウ(ベルリン、2019年)、大阪中之島美術館(2024年)、グラン・パレ(パリ、2024年)などがある。2008年に芸術選奨文部科学大臣新人賞、2025年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。作品は福岡市美術館や十和田市現代美術館などに常設されている。
黒田 清輝
1866年、薩摩藩士の子として鹿児島に生まれ、伯父の養子となって上京した。法律を学ぶため1884年にフランスへ留学したが、パリでラファエル・コランに師事して画家の道へ進む。留学中はバルビゾン派に傾倒してグレ=シュル=ロワンに住み、1891年の《読書》がサロンに入選した。帰国後の1896年、久米桂一郎らと白馬会を結成。同年に新設された東京美術学校西洋画科で指導にあたり、1898年に教授となって、日本の洋画教育の基礎を築いた。1907年の文展開設では審査委員を務め、1910年に洋画家として初めて帝室技芸員となる。1913年に国民美術協会を結成し、1922年には帝国美術院の院長に就いた。箱根・芦ノ湖畔で妻を描いた《湖畔》(1897年)は重要文化財。1924年、57歳で没。
青木 繁
1882年、福岡県久留米市に生まれる。13歳で県立久留米尋常中学明善校に入学し、画家の森三美に洋画を学んだ。1899年に上京し、1900年に東京美術学校西洋画科へ入学。黒田清輝が主導する同校でアカデミックな技法を身につけながら、古典の研究にも励んだ。1903年、日本やインドの神話に取材した画稿を第8回白馬会展に出品して白馬賞を受け、画壇に登場する。1904年の千葉・布良海岸への写生旅行で《海の幸》を描き、浪漫的な作風で注目を集めた。1907年の東京勧業博覧会に出品した《わだつみのいろこの宮》は三等賞にとどまり、審査を批判した。同年、父の死を機に郷里へ戻り、九州各地を転々としながら制作を続けたが、1911年、肺結核のため28歳で没した。
岸田 劉生
1891年、実業家・文化人として知られた岸田吟香の四男として、東京・銀座に生まれる。生家は目薬を商う楽善堂だった。両親を亡くしたのち画家を志し、1908年に黒田清輝に師事。1911年ごろから雑誌『白樺』の同人と交わり、印象派以後の西洋の画家から強い影響を受けた。1912年に初めての個展を開き、同年フュウザン会に参加。1915年からは草土社の中心として活動し、1917年の二科展で受賞した。北方ルネサンスの画家に学んだ細密な写実で、娘の麗子をモデルにした一連の肖像画を描き、なかでも《麗子微笑》(1921年)は重要文化財に指定されている。1923年の関東大震災後は京都に移り、古美術の収集にも打ち込んだ。1929年、満州旅行の帰途に滞在した山口県で、38歳で没。
速水 御舟
1894年、東京・浅草に質屋を営む家の次男として生まれる。本名は蒔田栄一(のち速水栄一)。少年期に蒔絵師から技法を学び、1908年に松本楓湖の画塾に入門した。1910年に巽画会展に初出品し、実業家・原三溪の支援を受けて京都で写生に打ち込む。1914年の日本美術院再興で院友となり、1917年に同人へ推された。1920年の《京の舞妓》は徹底した細密描写で議論を呼び、写実から象徴的な表現へと向かう転機となった。1925年の夏、軽井沢で毎晩たき火に集まる蛾を写生して描いた《炎舞》は、近代日本画の傑作とされ、重要文化財に指定されている。1930年には横山大観に同行してヨーロッパを訪れ、帰国後は構成的で新しい作風を展開した。1935年、腸チフスのため40歳で急逝した。
宮島 達男
1957年、東京都に生まれる。1984年に東京藝術大学美術学部油画科を卒業し、1986年に同大学院を修了。その後、ニューヨーク(ACC、1990年)、ベルリン(DAAD、1990〜91年)、パリ(カルティエ現代美術財団、1993年)で研修・滞在制作を行った。LEDのデジタルカウンターを使い、数字が変わり続ける作品によって、時間、生と死、あらゆるものとのつながりを表現している。1988年のヴェネチア・ビエンナーレ「アペルト88」に参加し、1989年のポンピドゥー・センター「大地の魔術師たち」、1997年のヘイワード・ギャラリー「Big Time」など、数多くの国際展に出品してきた。パブリックアートに、六本木ヒルズの《Counter Void》(2003年)などがある。作品はニューヨーク近代美術館、テート、大英博物館などに収蔵されている。
ヤノベ ケンジ
1965年、大阪府に生まれる。1989年にロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートへ交換留学し、1991年に京都市立芸術大学大学院美術研究科を修了。「現代社会におけるサヴァイヴァル」をテーマに、ユーモラスな形の中に社会へのメッセージを込めた機械彫刻を制作している。1990年にデビュー作《タンキング・マシーン》を発表。2011年には希望のモニュメントとして《サン・チャイルド》を制作し、2017年からは《SHIP'S CAT》シリーズを展開している。2021年には《SHIP'S CAT (Muse)》が大阪中之島美術館に恒久設置された。1988年に第9期瀧冨士美術賞を受賞。2008年から京都芸術大学教授、同大学のウルトラファクトリー・ディレクターを務める。
舘鼻 則孝
1985年、東京に生まれる。東京藝術大学美術学部工芸科で染織を専攻した。日本の文化や伝統工芸の技法を現代の視点から捉え直す「Rethink」を制作のコンセプトとし、絵画、彫刻、舞台の演出など幅広い分野で活動している。代表作の《ヒールレスシューズ》は、高位の遊女が履いた高下駄に着想を得た作品で、アメリカの歌手レディー・ガガが愛用したことで世界的に知られるようになった。2016年には、パリのカルティエ現代美術財団で、自ら初めて演出した人形劇の公演を行った。作品は、メトロポリタン美術館、ヴィクトリア&アルバート博物館、ハイ美術館、京都服飾文化研究財団などに収蔵されている。
蜷川 実花
写真家、映画監督。写真、映像、空間インスタレーションなど多くの領域で活動し、クリエイティブチーム「EiM」のメンバーとしても制作している。木村伊兵衛写真賞をはじめ、数多くの写真賞を受賞。映画『ヘルタースケルター』(2012年)、『Diner』(2019年)を監督し、Netflixのドラマ『FOLLOWERS』(2020年)も手がけた。2023〜24年に東京・TOKYO NODEで開いた展覧会「Eternity in a Moment」には25万人以上が来場し、2025年には京都市京セラ美術館で「NINAGAWA Mika with EiM: Lights of the beyond, Shadows of this world」を開催した。これまでに120冊以上の写真集を出版し、150以上の個展を開いている。
狩野 芳崖
1828年、長府藩の御用絵師・狩野晴皐の子として長門国長府(現・山口県下関市)に生まれる。幼いころから父に狩野派を学び、1846年に江戸へ出て狩野養信に入門した。1857年ごろ関西を巡ったのち江戸に戻り、「芳崖」と名乗って独自の画風を切り開く。明治維新後は生活に困窮し、養蚕や文具店を営みながら1877年に上京。1882年の第1回内国絵画共進会への出品がアーネスト・フェノロサの目に留まり、フェノロサのもとで鑑画会を中心に日本画の革新運動を進めた。1886年には東京美術学校の設立準備にも加わったが、開校を待たず、1888年に肺炎のため没した。絶筆《悲母観音》(1888年)は重要文化財。
高橋 由一
1828年、佐野藩士の子として江戸に生まれる。幼くして祖父に育てられ、狩野派の画家から絵を学んだ。嘉永年間に西洋の石版画の写実性に衝撃を受けて洋画を志し、1862年に幕府の洋学研究機関に入る。1866年には横浜でイギリス人画家チャールズ・ワーグマンに油彩を学んだ。1872年ごろから洋画家として本格的に活動を始め、1873年に日本橋浜町に画塾「天絵社」を開いて後進を育てた。1880年以降は香川の琴平や東北地方にも制作の場を広げ、晩年には自らの画業を振り返る展覧会を開いた。日本の近代洋画の開拓者とされ、《花魁》《鮭》は重要文化財。1894年に没。
浅井 忠
1856年、佐倉藩士の子として江戸・木挽町の藩中屋敷に生まれる。幼いころから絵を好み、1868年ごろ南画家の黒沼槐山に学んだ。1876年に画家を志して彰技堂に入り、工部美術学校でイタリア人画家フォンタネージに西洋画を学ぶ。1889年に明治美術会の創立に加わり、1898年に東京美術学校西洋画科の教授となった。1900年からのフランス留学ではグレ=シュル=ロワンで制作し、パリ万博でデザインも研究。帰国後は京都高等工芸学校の教授となり、陶芸の遊陶園や漆芸の京漆園を創設して図案の改良を指導した。農村の暮らしを描いた《春畝》《収穫》は重要文化財。1907年、京都で没。
竹内 栖鳳
1864年、京都に生まれる。本名は恒吉。1877年に四条派の土田英林に入門し、1881年から幸野楳嶺に師事して「棲鳳」の号を得た。1887年に独立し、京都画壇の中心的な画家となる。1900年のパリ万博の視察でヨーロッパを訪れて西洋美術を研究し、帰国後に号を「栖鳳」と改めた。1907年の第1回文展では京都側を代表して審査員を務め、獅子図や西洋の風景を取り入れた革新的な作品で京都画壇の大家となる。1922年には日本画家として初めてフランスのサロンの会員に推された。1937年、横山大観とともに第1回文化勲章を受章。晩年は湯河原に住み、後進の指導に力を注いだ。1942年に没。
下村 観山
1873年、紀州藩の能楽小鼓方の家に和歌山で生まれる。本名は晴三郎。1881年に一家で上京し、狩野芳崖、橋本雅邦に学んだ。1889年に東京美術学校の第1期生として入学し、岡倉天心の薫陶を受ける。1898年、天心が校長を退いた美術学校騒動で横山大観らとともに学校を去り、日本美術院の創設に参加した。1902年には文部省の命でイギリスに留学し、西洋絵画を研究。1906年、日本美術院とともに茨城県五浦に移った。1913年の天心の死後は大観とともに日本美術院の再興に取り組み、1914年の再興に参画した。代表作《弱法師》(1915年)は重要文化財。1930年、57歳で没。
萬 鉄五郎
1885年、岩手県の土沢(現・花巻市)に生まれる。小学生のころから水墨画の指導を受け、1901年に水彩画の入門書に感銘を受けて西洋画を志した。1903年に上京して著者の大下藤次郎に学び、1907年に東京美術学校西洋画科に首席で入学。はじめ外光派に学んだが、やがて後期印象派やフォーヴィスムの主観的な表現に傾いた。1912年の卒業制作《裸体美人》は、日本のフォーヴィスムの先駆けとされる。同年、岸田劉生らとフュウザン会を結成。郷里に戻った時期にはキュビスム的な造形を試み、1917年の《もたれて立つ人》は日本のキュビスム受容の先駆作とされる。肺結核の療養で茅ヶ崎に移り、南画と洋画の融合にも取り組んだ。1927年、41歳で没。
中村 彝
1887年、茨城県水戸に生まれる。幼くして両親を亡くし、東京で祖母や兄姉に育てられた。軍人を志したが胸の病のために断念し、1906年ごろから油絵を始める。1908年の太平洋画会展に初入選し、1909年の第3回文展以降、たびたび受賞して注目された。1911年に新宿の中村屋の裏に移り住み、1915年の文展では2等賞を受けて作品が文部省に買い上げられた。1916年に新しいアトリエを構え、結核と闘いながら制作を続けた。ルノワールを思わせる柔らかな筆づかいで描いた《エロシェンコ氏の像》(1920年)は重要文化財。1924年、喀血により37歳で没した。
藤島 武二
1867年、薩摩藩士の三男として鹿児島に生まれる。西南戦争で兄たちを亡くし、十代で家督を継いだ。四条派の画家に日本画を学んだのち、1885年に川端玉章に入門。その後、曽山幸彦らに師事して洋画を本格的に学んだ。1896年、黒田清輝の推薦で東京美術学校西洋画科の助教授となり、白馬会の中心的な画家として活躍する。正倉院の楽器・箜篌に着想を得た《天平の面影》(1902年)は、浪漫主義を代表する作品として重要文化財に指定され、青木繁らにも大きな影響を与えた。1905年から4年間フランスとイタリアに留学し、帰国後は教授として1943年に亡くなるまで後進を指導した。
小林 清親
1847年、江戸本所に生まれる。明治時代を代表する浮世絵師の一人で、近代化が進む東京の風景を、光と影の効果を強調した「光線画」と呼ばれる木版画で描いた。ガス灯やランプなどの新しい明かりに照らされた夜の情景を通して、移り変わる町と、江戸から受け継がれた闇や陰影を同時にとらえた点に特色がある。全国の美術館に数多くの作品が収蔵されている。1915年に没。
川合 玉堂
1873年、愛知県に紙・筆・墨を商う家に生まれる。本名は芳三郎。1881年に岐阜へ移り、1887年に京都の望月玉泉に入門した。1890年の第3回内国勧業博覧会で褒状を受け、号を「玉堂」と改める。両親を相次いで亡くしたのち、1896年に上京して橋本雅邦の門下となり、狩野派の筆法を身につけて東京画壇の中心的な画家となった。1900年代から風景画に力を注ぎ、1907年の東京勧業博覧会で《二日月》が一等賞を受賞。1915年に東京美術学校教授、1917年に帝室技芸員となった。晩年は東京・青梅の御岳に住み、1957年に没。1961年には同地に玉堂美術館が開館した。
橋本 雅邦
1835年、江戸・木挽町に生まれる。狩野養信の門下で修業を始め、狩野雅信に師事して1860年に独立した。明治初期は困窮したが、1882年の第1回内国絵画共進会への出品をきっかけに名が広まり、フェノロサや岡倉天心の指導のもとで、西洋の遠近法を取り入れた新しい日本画の表現を開拓した。1888年に東京美術学校に雇われ、翌年の開校とともに教授として多くの後進を育てる。門下からは横山大観、下村観山、菱田春草らが出た。1890年に帝室技芸員。1898年の美術学校騒動ののちは、天心らと日本美術院を創設して主幹を務めた。1908年に没。
岡田 三郎助
1869年、佐賀に生まれる。幼くして上京し、旧佐賀藩主の鍋島直大侯爵の屋敷に身を寄せた。1887年に曽山幸彦のもとで洋画を学ぶ。のちに東京美術学校の教授となり、帝室技芸員、帝国芸術院会員を務めた。女性像を得意とし、日本的な感覚をもつ洋画に多くの秀作を残した。1937年、第1回文化勲章を受章。1939年、東京で没。
富岡 鉄斎
1837年、京都の法衣商の家に生まれる。家学の石門心学に加え、国学、漢学、陽明学を学んだ学者肌の人物だった。1850年代に絵の基礎を身につけ、長崎への遊学を経て、1862年ごろ京都の聖護院村に私塾を開き、昼は絵を描き、夜は読書をする暮らしを続けた。明治に入って各地の神社の宮司を務めたが、1881年に辞職し、在野の儒者・文人画家として活動した。1917年に帝室技芸員、1919年に帝国美術院会員となる。晩年まで山水画の大作を数多く手がけ、1924年に数え年89歳で没した。
村上 隆
1962年、東京に生まれる。東京藝術大学で日本画を学び、1993年に博士号を取得した。1991年に制作スタジオを立ち上げ、のちに有限会社カイカイキキへと発展させて、ギャラリー運営やグッズ、さまざまな創作事業を手がけている。現代美術と日本の視覚文化の伝統を結びつける「スーパーフラット」を提唱し、「Flowers」や「DOB」などのキャラクターを生み出した。ファッションや音楽とのコラボレーションでも現代美術の領域を広げてきた。ニューヨーク近代美術館、グッゲンハイム美術館ビルバオ、ヴェルサイユ宮殿、ボストン美術館などで展覧会を開催。2008年には『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた。
横尾 忠則
1936年、兵庫県西脇市に生まれる。グラフィックデザイナーとして活動を始め、ワルシャワ、ラハティ、ブルノなどの国際ポスター・ビエンナーレで数々の賞を受けた。1981年にいわゆる「画家宣言」をして、以後は美術家として絵画を中心に制作している。版画家、作家としても活動し、1995年に毎日芸術賞、2008年に小説で泉鏡花文学賞を受賞。2001年に紫綬褒章、2015年に高松宮殿下記念世界文化賞を受け、2023年には日本芸術院会員となり、文化功労者に選ばれた。2012年に神戸市に横尾忠則現代美術館、2013年に香川県の豊島に豊島横尾館が開館。作品はニューヨーク近代美術館や大英博物館など、国内外の200を超える美術館に収蔵されている。
落合 陽一
1987年、東京都港区に生まれる。2010年ごろから作家として活動を始めた。筑波大学情報学群情報メディア創成学類を2011年に卒業し、東京大学大学院学際情報学府で2013年に修士、2015年に博士の学位を取得。計算機と自然が融け合う「デジタルネイチャー」を掲げ、物質化、変容、身体性への憧れをテーマにした作品を制作している。筑波大学の教授を務めるほか、ピクシーダストテクノロジーズの代表も務める。2016年にアルスエレクトロニカ賞の栄誉賞とEU STARTS Prizeを受賞。2025年の大阪・関西万博ではテーマ事業プロデューサーとして、パビリオン「null²」を手がけた。
鈴木 康広
1979年、静岡県に生まれる。2001年に東京造形大学を卒業。身の回りの工業製品などを素材に、人と自然を新しい視点で結びつける作品を制作し、誰もが共有する記憶や体験に新鮮な気づきをもたらしている。目を開いた紙と閉じた紙が空間を舞い落ちる《まばたきの葉》(2003年)、水面にファスナーを開くような航跡を描く《ファスナーの船》、重力を遊びに変える《りんごのけん玉》などで知られる。水戸芸術館(2014年)、箱根 彫刻の森美術館(2017年)で個展を開き、2021年にはイスラエルのティコティン日本美術館で海外の美術館での初個展を開催した。2009年にグッドデザイン賞、2014年に毎日デザイン賞を受賞。
小松 美羽
1984年、長野県に生まれ、同県坂城町を拠点に制作している。物質と精神、一瞬と永遠といった相反するものの調和をめざす「The Great Harmonization」を制作の考え方に掲げる。2013年にはパリのプティ・パレで開かれたCANSON®賞の展覧会に選ばれた。主な個展に、ウッドワン美術館(2020年)、長野県立美術館(2021年)、ホワイトストーン・ギャラリー・シンガポール(2023年)などがある。作品は大英博物館、ニューヨークのワールドトレードセンターのほか、高野山金剛峯寺、出雲大社、厳島神社などに収められている。
千住 博
世界を舞台に活動する日本画家。1995年のヴェネチア・ビエンナーレで名誉賞を受け、早くから国際的に評価された。「重力の美」と「時の流れ」を主題にした滝のシリーズで知られる。主な委嘱作品に、京都・大徳寺聚光院の襖絵、高野山金剛峯寺大主殿の襖絵44面(2023年に重要文化財に指定)、羽田空港の壁画、東京国立博物館の大作屏風などがある。長野県軽井沢町に千住博美術館を開館。作品はスミソニアン国立アジア美術館やメトロポリタン美術館などに収蔵されている。公式サイトによると、本人はSNSの公式アカウントを持っていない。
会田 誠
1965年、新潟県に生まれ、神奈川県を拠点に活動する。1989年に東京藝術大学美術学部油画科を卒業し、1991年に同大学院美術研究科修士課程を修了。絵画、写真、彫刻、パフォーマンス、インスタレーション、小説、漫画、都市計画まで、国内外で幅広い表現を展開している。主な個展に、森美術館の「天才でごめんなさい」(2012〜13年)などがあり、ポンピドゥー・センター・メス、ホイットニー美術館、ヴェネチア・ビエンナーレなどの展覧会にも参加。作品は森美術館、東京国立近代美術館、東京都現代美術館、ニューヨークのアジア・ソサエティなどに収蔵されている。
山口 晃
1969年、東京に生まれ、群馬県桐生市で育つ。1994年に東京藝術大学美術学部油画科を卒業し、1996年に同大学院修士課程を修了した。油彩の技法を用いながら日本の伝統的な絵画の様式で描き、都市を鳥瞰した図や合戦図で知られる。彫刻、漫画、インスタレーションなども手がけ、成田国際空港や東京メトロの駅にパブリックアートを制作した。主な個展に、水戸芸術館(2015年)、ロンドンの大和日英基金ジャパンハウス(2018年)、アーティゾン美術館(2023年)などがある。2013年に著書『ヘンな日本美術史』で第12回小林秀雄賞を受賞。
河鍋 暁斎
1831年(天保2年)、下総国古河(現・茨城県古河市)に生まれる。幼くして浮世絵師・歌川国芳に画を学び、10歳で駿河台狩野派の前村洞和に入門、その画才から「画鬼」と呼ばれた。洞和が病を得ると狩野洞白陳信の門に移って狩野派の基礎を修め、1849年、19歳という異例の早さで「洞郁陳之」の号を受けて修業を終えた。のちに狂斎、さらに暁斎と号する。狩野派を土台にしつつ他派の画法を貪欲に取り込み、安政期には世相を風刺した画を出版、明治初期には錦絵や版本を数多く手がけた。1870年には筆禍により捕縛されている。1881年の第2回内国勧業博覧会では《枯木寒鴉図》が妙技二等賞牌を受けた。英国人建築家ジョサイア・コンドルを弟子とし、フランス人エミール・ギメとも交流して海外でも名を知られた。1889年4月26日、東京で没した。
月岡 芳年
1839年(天保10年)、江戸に生まれる。本名は吉岡米次郎。1850年ごろ、12歳で歌川国芳に入門した。同門には河鍋暁斎や落合芳幾がいる。1866年、芳幾と分担して描いた揃物『英名二十八衆句』で一躍人気絵師となる。血みどろ絵や役者絵など幅広い画題を手がけ、幕末から明治初期にかけては歴史画に力を注いだ。維新後は『郵便報知新聞』『やまと新聞』などの挿絵も担当し、大蘇芳年とも号した。晩年には、月にまつわる和漢の物語を百図に描いた『月百姿』(1885〜92年)や、幽霊・妖怪と人との対決を描く『新形三十六怪撰』(1889〜92年)を手がけた。淡い色調とぼかし、大胆な構図が特色である。美人画の揃物『風俗三十二相』も代表作に数えられ、門下からは水野年方らが出た。1892年6月9日、54歳で没した。
橋口 五葉
鹿児島市に生まれる。本名は清。18歳で上京して日本画家の橋本雅邦に学んだが、黒田清輝の勧めで洋画に転じ、白馬会洋画研究所を経て1900年に東京美術学校へ入学した。在学中から図案の才能を発揮し、夏目漱石『吾輩は猫である』をはじめとする近代文学の装幀を数多く手がけたほか、三越呉服店のポスターでも広く知られるようになる。1914年ごろから浮世絵の研究に打ち込み、1915年には版元・渡邊庄三郎のもとで木版画《浴場の女》を刊行した。1918年以降は私家版の木版画を手がけ、《髪梳ける女》(1920年)など、伝統的な彫りと摺りを生かした美人画を残した。生前に刊行した木版画は十数点にとどまるが、新版画を代表する作家の一人とされる。1921年2月24日、41歳の若さで東京に没した。
楊洲 周延
1838年(天保9年)、越後高田藩の江戸詰藩士・橋本直恕の嫡男として生まれる。本名は橋本直義。はじめ歌川国芳に学び、1861年に国芳が没すると三代歌川豊国のもとへ移り、のちに豊原国周の門下となった。1868年の戊辰戦争では、江戸の高田藩士で結成された神木隊の一員として上野戦争に加わり、さらに旧幕府軍とともに箱館戦争を戦った。1875年ごろに浮世絵の世界へ戻り、1877年ごろから本格的に絵師として活動する。美人画を得意とし、三枚続の風俗画を数多く手がけた。江戸城大奥を題材とした『千代田の大奥』(1894年〜)や、明治の女性像を描いた『真美人』(1897年)などが代表作である。明治の風俗を幅広く描いた浮世絵師として再評価が進んでおり、その画業はおよそ45年に及んだ。1912年9月29日に没した。
土田 麦僊
1887年、新潟県佐渡に生まれる。本名は金二。1903年に京都の智積院に入ったが、画業を志して寺を離れ、鈴木松年に学んだ。のちに竹内栖鳳の門に移り、麦僊の号を受けた。1908年の第2回文展で《罰》が三等賞を得て注目を集め、1911年に京都市立絵画専門学校を卒業した。1918年には官展を離れ、村上華岳、小野竹喬らと国画創作協会を結成し、創立展に《湯女》を出品した。1921年から23年にかけてヨーロッパ各地を巡って西洋美術を研究し、帰国後の《舞妓林泉》では厳格な構図による装飾的な画面を追求した。協会の解散後、1929年の第10回帝展に《罌粟》を出品して官展に復帰し、1934年に帝国美術院会員となった。1936年6月10日に京都で没し、遺作《妓生の家》は未完に終わった。
和田 英作
1874年、鹿児島県垂水に牧師の子として生まれる。明治学院で上杉熊松に洋画の基礎を学び、曽山幸彦と原田直次郎の画塾を経て、1894年に黒田清輝・久米桂一郎の天真道場に入った。1896年に白馬会に参加し、翌年、東京美術学校西洋画科選科を卒業した。卒業制作の《渡頭の夕暮》は、群像で牧歌的な郷愁を描いた代表作とされる。1899年に渡欧し、パリでラファエル・コランに師事して1903年まで学んだ。帰国後は東京美術学校教授となり、1932年から36年まで同校の校長を務めた。帝国劇場の天井画など大画面の建築装飾画も数多く手がけたが、その多くは震災や戦災で失われた。帝室技芸員や日本芸術院会員を務め、文化勲章を受けた。晩年は静岡県三保に住み、1959年1月3日に清水市で没した。
鹿子木 孟郎
1874年、岡山藩士の家に生まれる。本名は宇治孟郎で、不倒と号した。松原三五郎の天彩学舎に学んだのち上京し、小山正太郎の不同舎で研鑽を積んだ。その後3度にわたって渡欧し、パリでジャン=ポール・ローランスに師事して、フランス・アカデミスムの堅実な写実を身につけた。1907年の《ノルマンディーの浜》や第2回文展に出品した《ローランス画伯の肖像》など、滞欧期の作がよく知られる。浅井忠らと関西美術院を設立し、のちに院長を務めて京都の洋画壇を導いた。文展・帝展でも活躍し、肖像画を得意とした。明治神宮聖徳記念絵画館の壁画《奉天入城》などの大作も手がけ、1932年にレジオン・ドヌール勲章を受けた。1941年4月3日、京都市左京区の自宅で没した。
満谷 国四郎
1874年、岡山県の現在の総社市に生まれる。岡山中学在学中に松原三五郎に学び、1891年に中退して上京した。五姓田芳柳に入門し、芳柳の没後は小山正太郎の不同舎で学んだ。1897年の《林大尉戦死之図》など写実的な主題画で頭角を現し、1900年のパリ万国博覧会では《蓮池》が銅牌を得た。同年にアメリカへ渡り、翌年ヨーロッパに移った。帰国後は吉田博らと太平洋画会を結成し、1907年の第1回文展では審査員を務めた。1911年には大原孫三郎の援助で再び渡欧し、ルノワールやセザンヌに触発されて平明で装飾的な画風へと大きく転じた。のちには中国にもたびたび取材し、独自の画境を開いた。1925年に帝国美術院会員となり、1936年7月12日に東京の自宅で没した。
田中 達也
1981年、熊本県に生まれる。ミニチュア写真家・見立て作家。身の回りの日用品や食べ物を別の何かに見立て、小さな人形と組み合わせて情景をつくり、写真に収める作風で知られる。2011年に始めた「MINIATURE CALENDAR」では、毎日1点の新作をインターネット上で発表し続けている。2017年にNHK連続テレビ小説「ひよっこ」のタイトルバックを手がけ、2020年ドバイ国際博覧会では日本館の展示クリエーターを務めた。作品集『MINIATURE LIFE』『Small Wonders』のほか、絵本『くみたて』なども刊行している。国内外を巡回する「MINIATURE LIFE展 田中達也 見立ての世界」の累計来場者は320万人を超え、Instagramのフォロワーも400万人を上回る(いずれも2026年1月時点の公式発表)。
寺田 克也
1963年、岡山県に生まれる。マンガ家・イラストレーター。マンガ、小説の挿絵、ゲームやアニメのキャラクターデザインなど、ジャンルを横断して活動している。幼いころから日本のマンガに親しみ、思春期にメビウスや大友克洋の作品に触れたことで、欧米のコミックスとアジアの線描・陰影表現をあわせもつ独自の画風を築き、海外にも多くのファンをもつ。主な仕事にマンガ『西遊奇伝大猿王』『ラクダが笑う』、ゲーム「バーチャファイター」シリーズのキャラクターデザイン、映画・テレビ作品「ヤッターマン」「仮面ライダーW」のキャラクターデザインがある。2013年には京都国際マンガミュージアムで、それまでの仕事を総括する展覧会「寺田克也 ココ10年」を開催した。近年はアメリカ西海岸でも個展を重ねている。
鴻池 朋子
1960年、秋田県に生まれる。東京藝術大学絵画科日本画専攻を卒業後、玩具デザインの仕事を経て、1998年ごろからアニメーション作品を発表した。以後、絵画、彫刻、絵本、パフォーマンス、ランドアートへと表現を広げ、土地や人と関わるサイトスペシフィックなプロジェクトを各地で展開している。「物語るテーブルランナー」は珠洲やグラスゴーなど国内外で続き、瀬戸内国際芸術祭では2019年から大島で作品を発表している。主な個展に「ハンターギャザラー」(秋田県立近代美術館、2018年)、「みる誕生」(高松市美術館・静岡県立美術館、2022年)、「メディシン・インフラ」(青森県立美術館、2024年)など。2012年に東山魁夷記念日経日本画大賞、2017年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、2023年に紫綬褒章を受章した。
ミヤケマイ
美術家。2001年から本格的に活動を始め、日本の伝統的な美術や工芸がもつ繊細さに独自の視点を加え、過去・現在・未来をつなぎながら物事の本質を問う作品を制作している。2008年にパリ国立高等美術学校に学び、2017年から2024年まで京都芸術大学の特任教授を務めた。主な個展にポーラ美術館「天は自らを助くるものを助ける」(2013年)、柿傳ギャラリー「夢の跡」(2021年)などがある。金沢21世紀美術館の「変容する家」やさいたま国際芸術祭2020などに参加したほか、メゾンエルメスのウィンドウディスプレイ「雨奇晴好」(2007年)、大阪・関西万博のパブリックアート《水心》(2025年)といったコミッションも手がける。作品制作に加え、書籍や執筆の分野にも活動を広げている。
内藤 礼
1961年、広島県に生まれ、東京を拠点とする。1985年に武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科を卒業。空間と光、そこに置かれるささやかなものの関係を通して、地上に生きることの感覚を静かに問いかけるインスタレーションを制作している。1997年には第47回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館で「地上にひとつの場所を」を展示した。主な個展に神奈川県立近代美術館 鎌倉(2009年)、金沢21世紀美術館「うつしあう創造」(2020年)、東京国立博物館「生まれておいで 生きておいで」(2024年)など。恒久作品として、直島の家プロジェクト「きんざ」(2001年)と豊島美術館の《母型》(2010年)がある。2018年に毎日芸術賞、2019年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。
池田 学
1973年、佐賀県多久市に生まれる。東京藝術大学美術学部デザイン科を卒業し、2000年に同大学院修士課程を修了した。ペンとインクで紙に細密な線を描き重ね、大画面に壮大な情景を築き上げる作風で知られる。代表作に《方舟》(2005年)、《興亡史》(2006年)、《予兆》(2008年)など。2011年に文化庁の研修でカナダ・バンクーバーに滞在し、2013年から2016年にはアメリカ・ウィスコンシン州のチェゼン美術館で滞在制作を行い、縦3m・横4mの大作《誕生》を完成させた。2017年にはミヅマアートギャラリーでの個展「誕生」が佐賀県立美術館、金沢21世紀美術館へと巡回した。高島屋美術賞(2014年)、円空大賞(2019年)を受賞。現在はマディソンを拠点とする。
石井 柏亭
1882年、東京下谷に生まれる。洋画家・版画家・美術評論家。本名は満吉。日本画家の父・石井鼎湖に日本画を学び、大蔵省印刷局で彫版と水彩の技法を身につけた。1898年に浅井忠に入門して洋画を本格的に学び、浅井の渡欧後は中村不折の指導を受けた。雑誌『方寸』を創刊して版画や美術批評の発表の場を開き、1913年の第7回文展では《滞船》が二等賞を受けた。1914年に二科会を創立し、1936年には一水会を結成するなど、官展の外で洋画壇を率いた。水彩や版画、評論など幅広く活動し、水彩画・版画用紙「MO紙」の名付け親ともなった。帝国美術院会員を経て日本芸術院会員となり、1958年12月29日に東京で没した。
原田 直次郎
1863年、江戸小石川に生まれる。1874年ごろから山岡成章に洋画を学び、東京外国語学校を経て1883年に高橋由一の天絵学舎に入門した。1884年にドイツへ渡り、ミュンヘン美術アカデミーで学ぶかたわらガブリエル・フォン・マックスに師事し、留学中に《靴屋の親爺》《ドイツの少女》などを制作した。ドイツ滞在中には森鴎外と親交を結び、のちに鴎外作品の挿絵も手がけている。1887年に帰国すると、1889年に画塾・鍾美館を開き、明治美術会の創立にも加わった。1890年の第3回内国勧業博覧会に出品した《騎龍観音》は、油彩の写実表現で仏教的な主題を描いた大作で、発表当時大きな議論を呼んだ。《靴屋の親爺》と《騎龍観音》はいずれも重要文化財に指定されている。1892年ごろから病を患い、鍾美館を1895年に閉じて療養を続けたが、1899年12月26日に36歳で没した。
川端 龍子
1885年、和歌山市に生まれる。本名は昇太郎。1904年に白馬会洋画研究所に入り、太平洋画会研究所にも籍を置いて洋画を学び、挿絵画家として知られるようになった。1913年に渡米し、ボストン美術館で東洋美術に触れたことを機に日本画へ転じた。院展には1915年に初入選し、1916年に《霊泉由来》で樗牛賞を受け、翌年日本美術院同人に推された。1929年に青龍社を創立し、以後没するまでその主宰者を務めた。「会場芸術」を唱え、時事的な題材や奇抜な構想を大画面に豪放な筆致で描いた。代表作に《草炎》《香炉峰》《爆弾散華》《金閣炎上》などがある。1959年に文化勲章を受章し、1963年には自ら設計した龍子記念館が開館した。1966年4月10日、東京都大田区の自宅で80歳で没した。
古賀 春江
1895年、福岡県久留米市に生まれる。本名は亀雄。地元の画家・松田諦晶に絵の手ほどきを受け、1912年に上京して太平洋画会研究所、翌年には日本水彩画会研究所に入った。1915年に得度して良昌と改め、春江を呼び名として用いた。1917年に《鶏小屋》で二科展に初入選し、1922年には《埋葬》で二科賞を受け、同年「アクション」の結成に加わった。1926年ごろからクレーを思わせる作風に移り、1929年の《海》などでは、脈絡のない事物を組み合わせて現実にない世界を描くシュルレアリスム的な表現へ進んだ。水彩画も晩年まで描き続けた。《窓外の化粧》などとともに、日本におけるシュルレアリスム絵画の先駆として知られる。1933年9月10日、38歳で没した。
村山 槐多
1896年、愛知県額田郡岡崎町に生まれ、京都で育った洋画家・詩人である。従兄にあたる画家・山本鼎の影響を受けて芸術を志し、1914年に上京して小杉未醒に師事し、日本美術院洋画部で研究を重ねた。絵画と並行して詩や小説も手がけ、みなぎる生命力を頽廃的・破滅的な気配とともに描き出す作風で知られる。深い茜色のガランスを好んで用いたことも、その画面を特徴づけている。1917年の《湖水と女》は、山々に囲まれた湖を背に座る女性を描いた作品で、日本美術院試作展で奨励賞を受けた。同年には《バラと少女》も描いている。1919年2月20日、肺炎のため22歳で没した。
渡辺 省亭
1852年(嘉永4年12月)、江戸神田佐久間町に生まれる。旧名は吉川義復。16歳で菊池容斎に入門して画を学び、維新後は横浜の貿易会社で輸出用工芸品の下絵を描いた。1877年の第1回内国勧業博覧会に出品し、翌1878年のパリ万国博覧会に際して渡仏、現地で即興画や掛軸制作の実演を行った。帰国後は西洋の表現を取り入れた花鳥画で国内外の人気を集め、濤川惣助の無線七宝の原画も手がけて、1906年には迎賓館赤坂離宮「花鳥の間」を飾る七宝額絵30点の原画を制作した。1890年には雑誌『美術世界』を編集し、木版画や口絵・挿絵も数多く残している。1893年のシカゴ万国博覧会には《雪中群鶏》を出品した。作品はメトロポリタン美術館など海外の美術館にも収蔵されている。1918年4月2日に没した。
木村 武山
1876年、茨城県西茨城郡(現・笠間市)に生まれる。本名は信太郎。幼少期に地元の南画家・桜井華陵に絵を学び、1891年に東京美術学校へ入学して岡倉天心、橋本雅邦らの指導を受け、1896年に卒業した。1897年には中尊寺金色堂の修復に助手として加わり、仏教美術に触れる機会を得た。日本美術院の創立に参加し、1906年から1912年にかけては美術院の同志とともに茨城県五浦で制作に励んだ。1907年の第1回文展では《阿房劫火》が三等賞を受けている。1914年の美術院再興に加わってのちは経営者の一人として同院を支え、1934年には高野山金剛峯寺金堂の壁画を完成させた。晩年は右手の自由を失ったが、郷里笠間で左手による制作を続け「左武山」と呼ばれた。仏画と花鳥画に多くの作を残し、1942年11月29日、東京・世田谷で没した。
冨田 溪仙
1879年、福岡県博多に生まれる。本名は鎮五郎。13歳のころ狩野派の衣笠探谷に学び、のち京都に出て四条派の都路華香に師事した。1899年に日本美術院の展覧会へ《鯉》を出品し、1914年の美術院再興後、1915年に同人に推された。狩野派・四条派の技法を基礎にしながら独自の奔放な画境を開き、1930年の第17回院展に《雲ケ畑の鹿》、1933年の第20回院展に《御室の桜》を出品して高い評価を得た。駐日フランス大使で詩人のポール・クローデルと詩画集「皇城十二景」を合作したほか、著書に『渓仙八十一話』がある。1935年に帝国美術院会員となり、1936年6月に日本美術院を退いた。同年7月6日、京都嵯峨野の自邸で急逝した。
森村 泰昌
1951年、大阪市に生まれ、大阪市を拠点とする。京都市立芸術大学美術学部を卒業した。1985年、ゴッホの自画像に自ら扮した大型カラー写真を発表し、以後、名画や映画の登場人物、歴史上の人物に扮するセルフポートレイトを制作の軸としてきた。綿密なリサーチをもとに、扮装や化粧、セット、ジオラマを使って作品をつくる。1988年にはヴェネチア・ビエンナーレのアペルト部門に選ばれ、国際的に注目された。東京都現代美術館での「空装美術館」(1998年)、国内4館を巡回した「なにものかへのレクイエム」(2010〜11年)、国立国際美術館での「自画像の美術史」(2016年)などで個展を開いている。紫綬褒章や芸術選奨文部科学大臣賞などを受け、作品は東京国立近代美術館やニューヨーク近代美術館などが所蔵する。大阪・北加賀屋に、自身の名を冠したモリムラ@ミュージアムがある。
手塚 愛子
1976年、東京に生まれ、ベルリンと東京を拠点に活動する。武蔵野美術大学で油絵を学び、大学院を修了したのち、2005年に京都市立芸術大学で博士号を取得した。既にある織物を解体して糸をほどき、もう一度構成し直す手法を用い、織物が背負ってきた歴史や文様、構造を見えるかたちにする作品で知られる。2005年のVOCA展で入賞し、2010年からは文化庁の在外研修員としてドイツに滞在した。兵庫県立美術館の「Stardust Letters 星々のふみ」(2015年)、アムステルダム国立美術館の「(Re)weaving Histories」(2022年)などで個展を開いている。東京都現代美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館、横浜美術館、韓国国立現代美術館など、国内外の多くの機関が作品を所蔵する。
山本 太郎
1974年、熊本県に生まれる。2000年に京都造形芸術大学美術科日本画コースを卒業した。在学中の1999年に「ニッポン画」を提唱し、琳派や浮世絵などの古典絵画の様式に、現代の風俗やキャラクターを取り込んだ作品を描いてきた。その作風は「現代の琳派」とも呼ばれる。昭和シェル石油現代美術賞、フィリップモリスアートアワード、2007年のVOCA賞を受け、2015年には京都府文化賞と京都市芸術新人賞を受賞した。美術館「えき」KYOTOでの「ニッポン画物見遊山」(2009年)や、髙島屋各店を巡回した「令和琳派」(2020年)など、国内外で個展を重ねている。2022年から京都美術工芸大学の特任教授を務める。ミネアポリス美術館、ニューサウスウェールズ州立美術館などが作品を所蔵する。
豊原 国周
幕末から明治にかけて活動した浮世絵師である。1835年(天保6年)、江戸京橋五郎兵衛町に生まれ、本名を荒川八十八という。作画の中心は歌舞伎役者を描いた役者絵で、1861年(文久元年)の揃物「豪傑奇術競」など、幕末にはすでに役者絵を版行しており、「一鶯国周」と署名した作例も残る。明治期に入ると、舞台の場面を大きく構成した三枚続を数多く手がけた。1879年に来日した米国のグラント将軍の行列を描くなど、時事的な題材も扱っている。錦絵のほか、東京国立博物館には「墨堤観花」「め組の喧嘩」などの絵画も所蔵されている。1900年(明治33年)7月1日に没した。
尾形 月耕
明治から大正にかけて活動した浮世絵師・日本画家である。1859年(安政6年)に江戸で生まれ、本名を正之助という。谷文晁や菊池容斎、河鍋暁斎らに私淑し、錦絵を描いて暁斎に認められたほか、絵ビラや人力車の蒔絵、輸出用陶器の下絵なども手がけた。のちに鑑画会へ出品し、フェノロサや岡倉天心の知遇を得る。新聞や書籍の挿絵、風俗を描いた錦絵で人気を集め、明治の新しい風俗画の先駆けとなった。1891年には日本青年絵画協会の設立に参加し、1898年の日本美術院創立にも加わって、院展第1回展で銀賞を受けて正員となった。1920年(大正9年)10月1日に没した。
水野 年方
明治期に活動した浮世絵師・日本画家である。1866年(慶応2年)、江戸神田に左官の棟梁の子として生まれ、通称を粂次郎という。1879年に月岡芳年に入門して錦絵を学び、さらに柴田芳州に南画を、渡辺省亭に花鳥画を学んだ。1887年ごろから『やまと新聞』の挿絵を担当し、雑誌『都の花』などの挿絵でも知られる。岡倉天心に認められて日本青年絵画協会に加わり、1898年の日本美術院創立にも参加している。美人画の揃物「三十六佳撰」などで知られ、門下からは鏑木清方らの美人画家が出た。1908年(明治41年)4月7日に没した。
山元 春挙
明治から昭和初期にかけて京都で活動した日本画家である。1872年、滋賀県滋賀郡膳所町に生まれ、本名を金右衛門という。京都で野村文挙、次いで森寛斎に学び、円山四条派の画法を身につけた。文展・帝展に出品を重ねて、竹内栖鳳と並ぶ近代京都画壇の代表的画家とされる。1917年に帝室技芸員に任じられ、1928年には昭和天皇の大嘗祭のための屏風を制作した。円山四条派の伝統を守りつつ、油彩画や写真の手法も取り入れた点に特色がある。1921年には琵琶湖畔に別邸・蘆花浅水荘を建て、同荘は1994年に国の重要文化財に指定された。1933年、京都で没した。
幸野 楳嶺
幕末から明治前期にかけて京都で活動した日本画家である。1844年、京都の両替商の家に生まれ、本名を直豊という。はじめ円山派の中島来章に入門し、のちに四条派の塩川文麟に師事して、花鳥画を得意とした。明治に入ると京都府画学校(現・京都市立芸術大学)の設立に携わり、私塾も開いて門人を育てるなど、絵画教育の近代化に力を尽くした。内国絵画共進会では審査にあたり、1893年には帝室技芸員に任じられている。門下からは竹内栖鳳や上村松園ら多くの画家が出た。版本の画譜も手がけ、1883年には大倉孫兵衛から『楳嶺花鳥画譜』が刊行されている。1895年に没した。
中村 不折
明治から昭和前期にかけて活動した洋画家・書家である。1866年、江戸京橋八丁堀に生まれ、本名を鈼太郎という。少年期を長野県高遠で過ごして南画を学び、1888年に上京して小山正太郎の不同舎に入り、浅井忠にも学んだ。正岡子規と知り合って新聞挿絵を描き、1895年には日清戦争に従軍記者として渡った。1901年に渡仏してラファエル・コラン、ついでジャン=ポール・ローランスに学び、1905年に帰国した。以後は太平洋画会で歴史画などを発表し、文展審査員や帝国美術院会員を務め、1934年には太平洋美術学校の校長となった。夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵でも知られる。中国の書跡を収集し、1936年に根岸の自邸に書道博物館を開いた。1943年、下谷区の自邸で没した。
川内 倫子
1972年、滋賀県に生まれ、千葉県を拠点に活動する写真家である。1993年に成安女子短期大学(現・成安造形大学)を卒業した。日常のささやかな光景や生命の気配を、やわらかな光のなかで静かにとらえる作風で国内外から高い評価を得ている。2001年に写真集『うたたね』『花火』などで本格的に登場して以来、刊行した写真集は30冊を超える。2002年に木村伊兵衛写真賞、2009年にICPインフィニティ賞、2013年には東川賞国内作家賞と芸術選奨新人賞を受けた。主な個展に、東京都写真美術館「照度 あめつち 影を見る」(2012年)、東京オペラシティ アートギャラリー「M/E」(2022年)などがある。作品は東京都写真美術館、カルティエ現代美術財団、サンフランシスコ近代美術館などに収蔵されている。
大竹 伸朗
1955年、東京都に生まれる。1980年に武蔵野美術大学油絵学科を卒業した。絵画、版画、彫刻、映像、音、インスタレーションと幅広い媒体を行き来し、印刷物や拾ったものを貼り重ねた「スクラップブック」に代表される膨大な制作で知られる。東京都現代美術館「大竹伸朗 全景 1955-2006」(2006年)、熊本市現代美術館・水戸芸術館「ビル景 1978-2019」(2019年)などで個展を開いた。2012年のドクメンタ13、2013年の第55回ヴェネチア・ビエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭など、参加した国際展は数多い。2009年には直島で、実際に入浴できる美術施設「直島銭湯『I♥湯』」を手がけた。2022〜23年には東京国立近代美術館で約500点による大回顧展が開かれ、愛媛と富山にも巡回した。
松山 智一
1976年、岐阜県に生まれ、ニューヨーク・ブルックリンを拠点に活動する美術家である。上智大学経済学部を卒業後に渡米し、2004年にプラット・インスティテュートでコミュニケーションデザインのMFAを取得した。日本の伝統的な図像や着物の文様、ファッション写真、日用品の記号などを緻密に組み合わせた色鮮やかな絵画と彫刻によって、ローカルとグローバルのはざまで揺れる文化的アイデンティティを問いかける。2020年にはJR新宿駅東口駅前広場に高さ約7メートルの彫刻《花尾 〜Hanao-san〜》を設置した。ほかに明治神宮、ニューヨークのバワリー、シカゴ公共図書館などでも大型のパブリックアートを手がけている。2025年には麻布台ヒルズ ギャラリーで、東京で初めての大規模個展「FIRST LAST」を開いた。作品はロサンゼルス・カウンティ美術館、サンフランシスコ近代美術館などに収蔵されている。